30 母のことを気遣う兄と、バリ島移住を認めさせたいわたし
突然わたしが家に押しかけてきたので、兄は怒るというよりもびっくりしていたようでした。
最初玄関でわたしを出迎えてくれた義理姉は、「あの人、昨日の夜からずっと不機嫌なのよねぇ」となんだか腑に落ちない様子でした。
兄はわたしたちがバリ島へ移住するかもしれないことを、まだ義理姉に話していないようです。
義理姉にわたしの来訪を知らされた兄は、むっつりとした顔でリビングのソファに座っていました。
「なんだよ、突然来るなんて。来る前に電話ぐらいしてもいいだろう」。
「どうせ電話したって、怒ってるんだから出てはくれないでしょう。だから直接来たんです」。
そしてそのまま、しばらくお互い口を噤んでいました。
その沈黙が息苦しかったのか、「お茶でも淹れるわ」と言って義理姉は台所へ。
さらにしばしの沈黙の後、ようやく兄が口を開きました。
「本当に外国へ移住するつもりなのか」。
もう誤魔化そうとしても意味がないので、わたしは正直に答えます。
「まだ正式に決まったわけではないけれど、主人はそのつもりみたい。とりあえず、あの人が会社を定年退職したらしばらくバリ島へ滞在して、本当に向こうで暮らしていけるのか確かめてみるつもり」。
「でも、そんな簡単なことじゃないんだぞ。第一、母さんのことはどうするつもりだ」。
案の定、兄は母のことを持ち出してきました。
「兄さんたちには面倒をかけるけど、でもそんなに遠いところじゃないし、母さんに何かあったらすぐに帰ってくるから」。
少しでも兄に理解してもらえるよう、わたしは必死で説明します。
「面倒をかけるとか、そんなことはどうでもいいんだ。わたしはただ、母さんのことを心配しているんだ」。
兄の気持ちはよく分かります。
この先そんなに長くは生きられない母の元を去るのは、わたしだって辛いのです。
でもきっと母なら、「わたしでなく旦那様を選びなさい」と言うに決まっています。
だからこそわたしは、主人の提案を受け入れたのです。
でもたとえそのことを兄に言っても、きっと納得はしてくれないでしょう。
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